よく磨かれたコップの中で、丁寧に砕かれた氷が心地良い音を立てた。
程よく冷えたレモンティーは、何処までも透明で、深い色をたたえている
ジョンはひと息ついてペンを置き、午後の柔らかな日の下で小さくのびをした。一口レモンティーを口に含む。
「お疲れのようですね。」
何時の間にか、婦人がドアにもたれかかっており、上品な笑顔で言葉をかける。
「はあ。どうもボクには向いてへん気がしますです。」
彼は少し困ったように首をかしげて微笑んだ。

彼はとある理由で家庭教師を頼まれていた。この家庭はオーストラリアの純白人種の一家で、仕事の都合で日本に来て十年経つという。敬虔なカトリック教徒である一家とは、同郷のよしみもあり、ジョンが日本に来てから色々と親しくさせてもらっていた。三人きりの一家の一人娘の家庭教師を頼まれたのは、彼女が学校で英語のひどい成績をとってしまったからだという。勿論、彼女は英語圏の両親を持ち、生まれもオーストラリアなのだが、二歳で日本に来て、早く日本に慣れるようにと日常的に日本語を使用した結果、母国語より美しく使えるようになってしまったという訳である。このことに気付き、慌てて英語を教えようとしたが、共働きで近年忙しい日々を送っていた夫婦はなかなか彼女に教える時間がなかった。そこで、日本語英語共に堪能なジョンが呼ばれたのである。日頃分単位で予定の詰まっている彼には、丁度良い息抜きだろうという勧めもあった。
しかし、思春期真っ只中の十二歳の女の子である。今日も休日とあり、すっぽかして友達と出かけてしまった。申し訳無さそうにする婦人にも、折角だからと言い、空き部屋の机を借りて問題作成に励んでいたところである。


テーブルセットから椅子をひとつ抱えてきて、ジョンの隣に座った婦人は言う。
「本当に困った子でしょ。久し振りの休みで私も家に居るっていうのに…。」
「遊びたい年頃やさかい、仕方ありまへんです。」
婦人は仕方なさそうに微笑む。ああ、本当にいい天気。と外に視線を移す。机に面した大きな窓のカーテンは、五月の心地良い風に揺れている。例えようもない午後の独特のぬくもりと、若葉の生命感が部屋と外の世界を満たしていた。
「ボクはこの時間が一日のうちで一番好きです。」
そう、彼はゆっくりと目を閉じて言う。

 


こんな日だった。丁度この家の少女くらいの年頃のジョンと、その彼より少し幼い少女と。
オーストラリアの空の下、印象派の画家が描いたようなどこまでも青々とした草原に一本の老木。涼しげな木陰の下、午後の勤めを早めに終わらせて読書をしている彼のところへ、近所に住む少女が大きな籠を抱えてやってきた。何時も周りを明るくするようなきらきらした笑顔が、今は曇っている。彼は心底心配そうに彼女にその理由を尋ねる。彼女は籠を地に置いた。赤く腫らしたどこか虚ろな目で見下ろし言う。
「今朝起きたら死んでいたの。」
籠の中には、もう二度と動き出すことは無いであろう、綺麗な色の小さな鳥のからだが、柔らかな綿の上にそっと置かれていた。少女が両手いっぱい広げて抱えねばならない程の籠の大きさに比べて、その鳥の小ささと色の鮮やかさは、まるでなにか貴重な宝石のように見えた。
ジョンは軽く十字を切り、彼女の大事な友達の冥福を祈った。籠をはさんで彼の前に座った少女は、ぽつりと呟く。
「ねえ、わたし、本当に本当に悲しいのよ。」
「うん。」
「昨日確かに少し様子が変だったの。今思えばどうして気付かなかったのかなって。でも、気付いたところでわたし何もできなかっただろうし、おとうさんにもおかあさんにもおねえさんにもおばあちゃんにもジョンにも何もできなかったとおもうの。」
「うん。多分そうだろうね。」
「おとうさんは"鳥は神様に召されたんだよ"って言うの。"神様の元で幸せに暮らしているんだよ"って。じゃあ、この動かないからだはなぁに?体は天国に行けないの?これは何なの。腐って果てるこれはなに?」
ジョンは言葉につまる。
「昨日までわたしの友達だったこの鳥は、天国へ行って幸せに暮らしました。…お話はここで終わりじゃないのよ。残されたこの綺麗でちいさななからだはどうなるの?土に埋めて終わり?お墓を作って終わり?それでバイバイさようなら?」
彼は唇を少し噛む。今の自分が彼女にしてやれることはいくらも無い。彼の信じるご立派な説教を説くことは出来ても、彼女はそんなものを望んで彼のところへ来た訳ではないのは分かっていた。彼女の友人として、何か言葉をあげたかった。
「東洋にこんな説があって…。」
言葉を選び選び言う。
「魂というのが体に宿ってボク達は今生きているんだ。死んだらその魂は体から出て行く。」
異教の話だ。本来ならばするべき話ではない。
「そしてからだが残るの?」
「うん。体はいつか腐って無くなってしまうね。でも、体は長い旅を終えてゆっくり休むんだ。」
しかし、ジョンはこの考え方はとても気に入っている。宗教を越えて、全ての人間に通ずる思想だと思っているからだ。
「やすむ?」
「生きている間はお腹が空いたり、寝る場所に困ったり、長いながい辛い旅なんだ。道中楽しい事や綺麗なものや悲しいこともあるけれど、とても長い旅で、その旅が終わる頃、体自体はもうすっかりくたびれてしまう。」
「うん。」
「だからその鳥にも、もう休ませてあげなくちゃ。魂はまた次の旅へ旅立ち、体は土へ還り、ゆっくりと休むんだ。そう、ボクも思う。」
長いながい沈黙があたりを包み、柔らかな風が吹いた。やがて少女は深く頷いた。自分の言いたいことが上手く言葉に出来たという気はしない。もっと良い言い方があったのかもしれない。だが、少女はジョンの言わんとすることをおおよそ理解してくれたようだった。そして彼女と二人で籠を抱え、老木の根元に鳥を還した。全てを包み込むように樹はそびえ、天国があるのならば透けて見えるくらい空は透明だった。
「ねえ、わたしもこうしていつか旅を終えるのね。」
「その時は沢山お土産話を用意しておいて。」
「うん。多分わたしジョンより長い旅だと思うから。」
そうやって二人で笑いあった。生命という儚くも綺麗なあたたかいものを抱えて。

 



ふと、昔のことを思い出し、懐かしさに笑みがこぼれた。それを見て婦人は唐突に、
「アナタ歳の割に素敵な経験をたくさんしているでしょう?」
と言った。ジョンはふいの言葉に驚き、同時に苦笑する。
「別にそんなことありませんですよって。普通ですよ。」
「そうかしらね。」
二人でひとしきりクスクス笑っていると、玄関の方でからんからんとベルが鳴り、ただいま、と声がする。
「あら、あの子帰って来たみたい。なんだかんだいってアナタのこと気に入っているのよ。」
婦人はウィンクして席を立ち、彼女を呼びに行く。そしてジョンはひとり静かに微笑み、製作中の問題を片付けようと腕まくりをした。


 

ごごご、ごめんなさい…。愚行再び。お目汚しですみません。訛りのないジョンなんてジョンじゃない…。ああ、言葉って難しいですね。

彼はすごいたくさん過去を抱えてそうで、こんな可愛らしい(?)思い出から辛いことまでいろいろありそうで、ついつい妄想が膨らんでしまいます。私の力量不足でうまく文字に出来ないのが悔しいです…。

20010421up